2016年2月21日日曜日

神様がくれたプレゼント

 日本の病院は年寄りで溢れかえっている。それは、癌の専門病院でも同じ事で、今、こうやって消化器内科・外科の待合室に座っている人たちを眺めると、多分、僕が一番若い。日本の癌患者の大部分は、70代、80代の人たちだ。中には、癌を治したところで、他の病気で死んじゃうんじゃないのかな、なんて思えてしまう御老人なんかもいる。

 考えてみれば、幸せな人たちだと思う。

 僕の祖母は、脳梗塞で倒れた。最初の何年間かは、リハビリなんかに打ち込んでいたけど、やがて寝たきりになった。17年もの間、寝たきりになって、年金も貯金も全て入院費に注ぎ込んで、全てを使い果たしたあげく、死んでしまった。最後の10年余りは、ただ、生きているだけの毎日だった。見舞いに行ったところで、話ができるわけでもなく、何も分からない。僕は、祖母が死んだという連絡を受けたとき、あんなに僕を可愛がってくれた祖母だったのにも関わらず、特に何の感情も湧いてこなかった。

 これが、癌だったらどうだろう。癌だったら意識があるから、家族と最後まで想いを共有できる。癌だったら何年も長患いしないから、経済的負担もそれなりで済む。癌だったら突然倒れたりしないから、ちゃんと身辺整理ができる。そして、癌だったら終末医療が発達している。

 癌というのは、人間が人間らしく最後を迎えることができるように、神様がくれたプレゼントに思える。だから僕は、癌で死ぬことになっても別に不幸だなんて思わない。人生の終え方が何千通りあるのか知らないが、癌で人生を終えることについての幸福度は、絶対、平均値を上回っている筈だからだ。

 だけど、この歳での宣告は辛い。あと10年で良いから待って欲しかったと思う。でも、10年後に宣告を受けたとしても、やっぱりあと10年待って欲しかったと思うだろうから、同じことなのかも知れない。きっと、僕の目の前の爺さんだって、もっと生きたいって思っているんだろう。結局、癌で死ぬことは、不幸なこととしか考えられなくなってしまう。

 せっかくのプレゼントだけど、ありがたく受け取るには、かなりの修行が必要のようだ。